canashiroのブログ

はてダ挫折者の再挑戦。

げんしけんと80年代・90年代。

仲俣暁生さんが指摘とは裏腹に(id:solar:20040129#1075347824)おそらく、木尾士目自身は80年代に青春を過ごしたおたくの一人なのだろうとおもう。
それでも仲俣暁生さんよりは少し年齢が低く(彼自身が筑波大学現代視覚文化研究会に所属していた)。90年代の原口のいう「自分たちではなにも生み出せないぬるいおたく」にも片足をつっこんでいることだろうと思う。
このことはげんしけんの登場人物からも明らかで、90年代、あるいは2000年代的なステレオタイプの皮をかむっていながらも80年代のおたくの本質をちらりと垣間見せる。
実は木尾士目は決定的に人物を描くのがうまい作家のひとりである。それはおたくに限らず、4年生・5年生という氏の出世作(いや、げんしけんこそが真の出世作か)を見るにも明らかな才能であるといえよう。
原口のキャラクター造詣は単に「大塚英志」をなぞったものではなく、彼、もしくは彼に準ずる(僕らのような)語りがりのくせに自分からは何も生まないおたくの象徴であろう。
仲俣暁生さんが指摘する原口のセリフは「げんしけん」自体の「新人類の自己批判」というテーマをあらわすものではない。それは自身も何も生まないおたくでありながら、それを批判するという原口自身の自己矛盾をあらわすセリフではないか。
これ以降、急速に原口の出番がなくなっていくのが彼がテーマたる「新人類の自己批判」を背負ったキャラクターではないことを裏付けている。
今月号以降、主人公としての役割を(やっと)果たしていくであろう笹原自身は新人類よりももっと進んだ90年代後期以降のおたくである(それは僕と重なる)
まさか、「僕はここにいてもいいんだ」という主張をもって作品が完結するとは思えないが、もしかすると80年代初期、新人類=モラトリアムとしての斑目が主人公であった時期はおわり、それが90年代以降のおたくである笹原へのバトンタッチという形で明示された今月号の展開は今後の作品を占う意味でもっとも重要であったといえよう。
今後、作品は笹原が一人前になるまでの経過をつづるはずであり、このバトンタッチが完全に終了した時点でげんしけんは一応の最終回を迎えるのではないかというのが僕の個人的見解なのだが、人気・アニメ化などの絡みもあってそこできれいに最終回となるかどうかは疑わしい。
(しかし、斑目が引退したということは今後少なくともサザエさん時空に突入することはあるまい)